葬送ルネサンス

第二話 葬儀は何のために行うか?

3. 葬儀の基本は礼儀

葬儀情報のオープン化が進むに連れて、様々な葬儀スタイルが紹介されるようになってきたが、それを象徴するものとして、ここ数年、よく耳にするのが「散骨」という話題である。筆者も講習会やセミナーなどで、「そういう『葬儀』はどうやったらよいのですか?」といった質問を受けることがある。そういう時、筆者は「葬法と葬儀は違うものなのですよ」と説明することにしている。それはどういうことなのか?

人間は有史以来、様々な方法で死者を葬ってきた。今や日本では献体などを除き火葬が一般的だが、歴史的には自然葬一土葬一火葬一土葬一火葬という変遷をたどってきた。世界的に見ても、死者を葬る方法は様々である。欧米では、カトリックが主流の国々では土葬が多く、それと比較してプロテスタントが主流の国々では火葬率が高くなっている。インドではガンジス川のほとりで火葬にして、その遺骸をガンジス川に流す風景がテレビなどでよく紹介されているが、それはヒンズー教徒の葬り方であり、回教徒は別の方法を採っている。儒教を重んじるお隣の韓国では、歴史的に土葬が多かった。変わったところでは鳥に死体を食べさせるチベットの「鳥葬」や、遺体を川にそのまま流す「水葬」、自然に放置し遺体が風化するのを待つ「風葬」などを行う地域もある。しかしそれらはあくまでも死者を葬る方法=葬法であって、葬儀とは根本的に違うのである。極端な言い方をすれば、それらはすべて「遺体処理の方法」に他ならない。

先にあげたように葬法には様々な方法があるが、基本的には死者を「自然に帰す」ことである。仏教では、この三千大千世界を構成しているものは「地・水・火・風・空」の「五大」であると説く。世界の様々な葬法を見てみると、それぞれが死者を「帰そう」とする先がこの五大のうちのいずれかに当てはまることに気がつく。土葬は地に、海や川に流す葬法は水に、火葬は火に、鳥葬や自然放置は風に、そしてそれらは最終的に自然そのもの(自然の本質)である「空」に死者を帰そうとする試みなのではないかと筆者は考えるのである。散骨などは、まさに「死者を自然に帰す」という、人間の本能とも言える「自然葬への回帰」ではないのだろうか。

しかし繰り返しになるが、「葬儀と葬法は一線を画すものである」と考える。「葬儀」とは「葬送儀礼」の略である。そして「儀礼」という言葉を逆から読めば「礼儀」となる。「死者を葬り(弔い)送る礼儀が葬儀の基本である」と、声を大にして言いたい。それは先にも述べたように、昨今の葬儀に関する情報の多くがこの「儀礼」の部分を忘れて、方法論などに終始しているように見受けられるからである。「儀礼」というのは「心=気持ちを形に表すこと」だと思う。葬儀から型通りに一切の形式を廃し、価格と効率だけを追求していくと、行き着く先は遺体処理になってしまうような気がしてならない。
食事を「生命維持のために必要な栄養補給」という側面だけから考えると、無駄なものは必要なく、「サプリメントだけで十分」という考え方が説得力をもってくる。しかし毎日の食事には、「栄養補給」以外の、人間が生活していく上で欠かせない重要な要素がたくさん含まれている。だからこそ、経済性や効率化を追い求める時代の流れと逆行するような、「スローフード」というキャッチフレーズが脚光を浴びるのである。

葬儀にも同じようなことが言えるのではないだろうか?もちろんビジネスとして考えれば、経済性や効率化は重要なポイントであり、お客様のニーズがそういう部分を志向していることも否定できない事実である。しかしそれだけではお客様の満足を得られないことも、また事実なのである。

参考文献:株式会社 国書刊行会発行 大倉 隆浄著「葬式はどうあるべきか」

ページTOPへ