葬送ルネサンス

第六話 無宗教葬をどう考えるか?

2. 日本文化は「ええとこどり」の発想

 「宗教文化を取り入れる」言葉にすると簡単そうだが、実はこれは容易なことではない。近年の宗教戦争を見るまでもなく、歴史上、新たな宗教・文明が流布していく際には、各地で強烈な抵抗が繰り返されている。
キリスト教などは同じ宗派でありながら、カソリックとプロテスタントの間では長年にわたり激烈な抗争が繰り返されてきた。ところが聖徳太子の時代の日本では、大陸から伝来してきた仏教を信じるに当たり、古来信仰されてきた神道を捨てる必要はなく、「それぞれのいいところを取り入れればいいではないか」と考えたのである。

 この考え方は、その後の日本の方向性を決定付ける画期的なものだった。宗教のような厳格なものでさえ「ええとこどり」できるのであれば、あらゆる文化は「ええとこどり」できる。事実、日本人はこの考え方で明治維新と開国による西洋文明の流入を何の抵抗感もなく受け入れ、さらに第二次世界大戦後のアメリカによる民主主義の導入にもすんなりと順応したのである。

「無宗教葬」って何?
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 この「ええとこどり」に代表される「集合思想」は、様々な歴史的変遷を乗り越え、今日の日本を築き上げたという点では非常に重要な意味をもつ考え方だが、しかし、その一方で、多くの外国人から指摘される「日本人の宗教観の曖昧さ」の元凶になっているのも事実である。この日本人特有の宗教観を抜きにして、現代人の多くが言うところの「無宗教」は考えられない。筆者が先に述べた「無宗教は宗教が無い状態ではなくて、ありすぎて何でもよくなっている状態」という意味が、おわかりいただけただろうか?

 ではそうした現状の中で、無宗教葬が注目される理由はどこにあるのだろうか?
無宗教葬というと頭に浮かぶのは、親しい人が集まって簡素に行う「家族葬」や故人が好きだった音楽を流す「音楽葬」、さらに従来の白木祭壇に代わる「花祭壇」などの斬新なディスプレーなどかもしれない。しかしそれらは葬儀の様式やスタイルなど「形」の部分であり、それについていくら語っても「無宗教葬とは何か?」という本質の部分からは見えてこない。
「自由葬」という言葉は意味的に近いような気がするが、ではその「自由」とは「何に対する自由なのか?」と問われれば、言葉に詰まってしまうのではないか?葬儀の基本は「人を送る心」であり、「葬儀はその心の具体的な形としての表れである」と繰り返し述べてきた。この基本はいかなる葬儀においても変わらないと考えている。そしてこの「人を送る心」というのは、既存の宗教によってそれを表現するかどうかは別にして、本源的な意味で人間がもつもっとも「宗教的」な心なのではないだろうか?

既存の宗教による葬儀形式を採らないで、他のどんな様式で執り行われるにせよ、葬儀という儀式が「故人を偲びその冥福を祈る」という「人を送る心」から発生するものであるならば、その奥底にあるのは人間が宗教を生み出したのと同じ思いなのではないかと筆者は考える。そしてその純粋な思いに、現代の葬儀様式が応えきれなくなってきているところに、人々の関心が「無宗教葬」に集まる要因があるのではないだろうか?
 無宗教葬における「無」の意味は「アンチ宗教」ではなく、「アンチ今までの葬儀様式」なのではないかと思われる所が多々ある。もちろんそうした葬儀様式に、江戸時代以降の宗教、特に仏教がべったりと依存してきたことは、4話の「変革を阻害する要因」の中でも述べてきた通りである。これには宗教側にも問題があることは事実だが、実際にそうした現状に見切りをつけて、宗教の形式にとらわれない新しい葬儀様式が求められてきていることも確かである。

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